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文章トレーニングと雑文置き場

Perspectives on Maturity: Reflecting on Past and Present Conversations

今日はタイトルはAIに決めてもらって一気に書いてしまおうと思う。というのも今久しぶりに夜更かしをしていて夜更かしテンションいわゆるというものであるからだ。夜更かしテンションというのは大学の学部生ぐらいのときにとても面白かった気がする。友達や彼女と話して一緒に夜を明かしたり、通話をしたり、眠くなってきたりすると結構何でも気楽に話せてしまうということがあるだろう。もちろんこれは結構子供っぽいことで大人ではなかなかやれないこともある。

 

でも最近思うのだけど、当時のほうが人間っぽくてそれはそれで魅力的だったのかもしれないと思う。最近読んだnoteの大学生は子供っぽくていわゆる痛い大学生だろう。でも彼のようなまっすぐな(と思いこんでいる)ことはある意味で悪くはないのだろう。もちろん批判されるべきこともあるけれど、ああいう率直さというか、客観視できないことはそれはそれで価値があるし、だんだん大人になるということはそういう客観視ができるようになってしまうということなのかもしれない。

 

そのようなことがあると、たぶん結構彼にとっては大変だったと思うし、いろいろと考えるきっかけになったのではないかなと思う。そういう時代は誰にでもあるだろうし、それこそそれを経験したということが成長のカギでもあるのではないかと思う。

 

そういう風に考えるとある意味乗り越えるべき壁や批判として、ああいうのを馬鹿にする大人は必要であるが、本来は馬鹿にするべきものでもないのかもしれない。このように考えると昔のことを思い出すけれども、やっぱりあの人は許せないなあと思うし、客観的に考えると、いくら大学生や高校生にあおられたとしてもあのような言い方や態度を明らかにとってしまうということは適切ではない。

 

まあもう10年前だし、どうこうする話でもないけれど。でも、いつも思い返すけれど、自分が当時の年上だった人の年齢になって考えると、やっぱりそこまで怒れないようなあとか陰湿になれないように思う。その意味ではやっぱりある意味異常なひとだったんだろうと結論付けることができる。

 

当時、なんだか人間としては尊敬できないなあというひとの年代になって、そりゃあまあこの年じゃしょうがないよなあと思うこともあって許せてしまうこともあるけれど、結局はそうでもない人もいて、そこはどんな基準があるんだろうなと思う。今日も考えたけど評価の観点とその基準を決めることは似ているようで違う。