雑文

文章トレーニングと雑文置き場

やばくなってきた

結局やる気が出なくなってきた。結構頑張ったけどやっぱり楽しくはないなと思ったのかもしれない。正直に考えてみると結局つまらないと思うのかもしれない。

 

面白い研究をしたいなと思っているけれど、何をしようと思っているけど、さあどうしようかと考えている。結局眠い頭の中で何をしようと思うかを考えているけど考えがまとまらないし結局何をするべきかを考えることができておらずやる気が全くでない。

 

これからも頑張る必要があると思うけど、結局一年間ちゃんと終われるかなというところはとても不安な気持ちがある。そろそろ2年目が終わるという感じもするしがんばらないといけないだろう。

 

正直なところ別にそっちはどうでもいいが査読論文をしっかりととおして発表しつつがんばれるかどうかが不安なところである。きちんと成果を見せてというところもおろそかにしてはいけないだろう。

 

結局成果が出るかも大事だけど、ちゃんとやっている感を出すということも同様に大事で結局はそれが将来のことにつながるのかもしれない。

 

そう考えるとあと2週間で勝負であってどんどん頑張るしかない。死ぬ気で頑張ってやる気がする。なんとか成果を出して乗り切ればとりあえずは1年間楽しく頑張れるはずである。

 

成果指標のアンケート調査はなんとしてもやらないといけなくてそれは官公庁への電話をかけまくるとかそういうことになるのだろう。

 

がむしゃら感と頑張っている感を出してスマートにやるのではなく二週間頑張るぞというつもりでひたすら資料を精査し、どんどんがんばっていくということに無理してがんばらないといけない。やるぞやるぞという気持ち。

 

そのためには気持ちを整えて頑張る必要があるし、わずかな時間でも頑張れるように気を引き締めていくということも必要である。二週間は気を引き締めて頑張るぞという気持ちで必死にがんばるがんばるがんばるとしかかけない

 

そのためにやるべきこととあとまわしにできることはちゃんと後回しにするということを忘れずにがんばらないといけない。

 

あとちょっとだけど気を張っていくにはちょうど良いタイミングで2つの大変なことはおわったので頑張って終わらせて新年度をスタートさせることができるように頑張りたいと思う。

 

さて、今日はなんだかいい感じなので明日と明後日で頑張ってやるべきことをきちんと済ませるぞ!!!!という感じだ!頑張れがんばれ自分。としかかけなーい。やるしか無すぎ

 

良い研究をすること

最近研究テーマを整理していて思ったのだが、技術的には大体これはできるなあとかその結果とかがよそくできるようになってしまっていた。大体データ分析のスキルはある程度あって、まあやったことがないものについても勉強したりとかトライしてみるとできるっちゃできるか~ということになった。

 

これはある意味で技術やスキルを一定程度身に着けたというか武器になったということだろう。こうなると割とらくちんではあるので研究自体はすぐに終わるし、くだらないところで足をすくわれることもなくなってくるのではないかと思っている。そう考えるとこれからは論文を生成できそうな気がする。しかし、論文自体はできたとしても、仮に査読に通ったとしてもそれが面白いかどうかは別な気がしている。

 

まず、テーマや着眼点は悪くはないけど、みんな思いつきそうなのをやっていないからや、少し技術があってできるからやるというような研究スタイルになってしまっているのが少し難点である。博論はオリジナリティがあったような気がするけれど、テーマを生み出す楽しさやつらさをもっと味あわなくてはいけないのかもしれない。

 

確かにうんうん必要だね。面白いかもぐらいのレベルで論文になりそうだし、とか助成金もらえそうだしということでやっているとダメなのかもしれない。そこらへんをうまくやって頑張らないといけないだろうなと思った。

 

さらに果たして良い研究何だろうかということも最近思っている。良い研究とは分析に隙がないということではなく、新たな視点や考えを適用して粗削りでも結構面白いじゃんとかそういうところは考えつかなかったなあというような感想をもたせてくれるものじゃないだろうか。

 

そういう意味では今の研究テーマはどれも確かに修論とか卒論ではやっている人がいそうだし、まあ発表としてはありうるけれど、それ以上のものにはならないような気がする。

 

もちろん採用や数のことだけ考えればどうせ中身なんて見られないのだからこのような通すための技術を学んでおくのも悪くはないのかもしれない。1年で2本提出できるということは悪くないのだし。仮に落ちたとしても。

 

しかし、それはそれでやりつつも面白い研究や新規のことを考え続けるということもすぐには結果は出ないかもしれないが忘れてはいけないだろう。じゃあ具体的にはどうすればよいのかはわからない。とりあえず手を動かしながら考えていこうというのもありうるのかもしれないがそれで答えが出るとも限らないしなというところである。

Perspectives on Maturity: Reflecting on Past and Present Conversations

今日はタイトルはAIに決めてもらって一気に書いてしまおうと思う。というのも今久しぶりに夜更かしをしていて夜更かしテンションいわゆるというものであるからだ。夜更かしテンションというのは大学の学部生ぐらいのときにとても面白かった気がする。友達や彼女と話して一緒に夜を明かしたり、通話をしたり、眠くなってきたりすると結構何でも気楽に話せてしまうということがあるだろう。もちろんこれは結構子供っぽいことで大人ではなかなかやれないこともある。

 

でも最近思うのだけど、当時のほうが人間っぽくてそれはそれで魅力的だったのかもしれないと思う。最近読んだnoteの大学生は子供っぽくていわゆる痛い大学生だろう。でも彼のようなまっすぐな(と思いこんでいる)ことはある意味で悪くはないのだろう。もちろん批判されるべきこともあるけれど、ああいう率直さというか、客観視できないことはそれはそれで価値があるし、だんだん大人になるということはそういう客観視ができるようになってしまうということなのかもしれない。

 

そのようなことがあると、たぶん結構彼にとっては大変だったと思うし、いろいろと考えるきっかけになったのではないかなと思う。そういう時代は誰にでもあるだろうし、それこそそれを経験したということが成長のカギでもあるのではないかと思う。

 

そういう風に考えるとある意味乗り越えるべき壁や批判として、ああいうのを馬鹿にする大人は必要であるが、本来は馬鹿にするべきものでもないのかもしれない。このように考えると昔のことを思い出すけれども、やっぱりあの人は許せないなあと思うし、客観的に考えると、いくら大学生や高校生にあおられたとしてもあのような言い方や態度を明らかにとってしまうということは適切ではない。

 

まあもう10年前だし、どうこうする話でもないけれど。でも、いつも思い返すけれど、自分が当時の年上だった人の年齢になって考えると、やっぱりそこまで怒れないようなあとか陰湿になれないように思う。その意味ではやっぱりある意味異常なひとだったんだろうと結論付けることができる。

 

当時、なんだか人間としては尊敬できないなあというひとの年代になって、そりゃあまあこの年じゃしょうがないよなあと思うこともあって許せてしまうこともあるけれど、結局はそうでもない人もいて、そこはどんな基準があるんだろうなと思う。今日も考えたけど評価の観点とその基準を決めることは似ているようで違う。

自然との関り

昨日は暖かな一日だった。外でバーベキューをして桜が咲いているのを横目に見ながらドライブをした。外に出るということは日に当たり、その暖かさやまぶしさを感じることだ。日に当たると疲れてしまうが、身体に当たった光は暖かさをもたらす。

 

この光は人間を元気にするものであると思う。もちろん疲れてしまうし、夏は暑いし日に焼けて黒くなってしまうけれども生きているなという気持ちをもたらしてくれるものでもある。

 

太陽に当たると元気になるのは人間だけではなく植物も同じである。春になってきて植物が芽を出し、地表面が緑めいてきた。花は咲き、においを出していて、春を感じさせてくる。春を感じるということは季節の中でも良いのかもしれない。夏も冬も秋も悪くはないけれど、季節の中で一番好きかも。

 

春を感じるとなんだか気持ちがウキウキするような気がして気が晴れてくる。先週は結構大変だったけど、1週間頑張ってみるとまあ何とかなるかというような、もちろんまだ油断はできないのだけど、そんな気がしてくる。

 

う~ん。やばいやばいと思っていた時のほうが仕事は進むんだけど、その時は視野を広げたりとかはできないという点に課題がある。平日に結構がんばったなあと思って、土日少し余裕ができたけれど、そうするといろいろと振り返って考えられる気がする。

 

こういう風に書いていると結局インプットとアウトプットになるのかもしれない。インプットをガンガンして書いていくというのは結局自分の中に取り込むことで、アウトプットはこれからのことを考えるということなのかもしれない。結局自分の中にf(x)があって、そのxをたくさん用意するのは大変だけど、用意するからこそyが出てくるはずである。yを良いものにするにはf(x)を変えていかないといけない。

 

そのためには詰込みというかxを集める作業も相当数必要である。その際には良いxを見つけてこれるようにしなくてはいけないし、集め方やf(x)へのアップデートも忘れずにしないといけないだろう。結局はf(x)をしっかりと作ること、そして絶えずxを入れていくことを忘れていけない。

 

さて、このブログも半年になったようである。すごいなあと思う反面、あんまり考えていることは変わらないのかもしれない。その考え方をもっていくのとでもかえていくということも柔軟に過ごしたいなと思っている。

 

ではまた来週。来週はコメントするということについて書いてみたいと思う。

時間が無い

時間が無くてやばくなってきた。だんだん心がきゅっとしてきて仕事をしないといけない気がしている。でも仕事はしているというか手は動かしているんだけど結局何も進んでいないようなそんな気がしてしまっている。結構大変なところまで来てしまっているかもしれない。できる限り早めにどんどん終わらせて頑張らないと進まないようになっている。

 

やるべきことが多すぎるのと外から降ってくるやるべきことをこなすので精一杯になってしまっているのかもしれない。あとやるべきことが中ぐらいのがたくさんあってしんどい。一つ一つはさほど大きくなく、おそらく頑張ればおわることではある。しかしその終わることを終わらせるのが結構大変であって、ちゃんと頑張らないといけないのがしんどいなあと思う。

 

4月からは朝早く起きることと夜ちゃんと寝ること、そして無駄をなくして効率的に働くことを頑張ってまずは何とか5月を乗り切りたいなと考えている。

 

そして論文の後始末をちゃんとつけて頭に何となく残っているやり残したことをなくして目の前のことにちゃんと頑張れる一年にしたいと思う。

 

ちなみに今年度の後半から半年間週に一度文章を書くという事を続けてみた。結構面白くてその時の考えをまとめておくのは良いのかもしれないと思った。ちょっと長いときもあるけれど1000文字はある程度のことは書けるし、でもわりとサクッとかけるということもあり、10分ちょっと頑張ると何とかなるということでその時の思い付きよりはちょぴり考えてみるという事が出来て面白かった。

 

さて、4月からは生活リズムと運動に着目をしたい。しっかりと頑張ってということを毎月頭に思っている気がしてもちろんそこですべて習慣化できればよいのだけど、できないからこそ、徐々にでもいいから意識をして頑張るという事を頑張りたい。

 

まあでも仕事を始めて一年目わりとがんばったよ自分というような気もするけど、ゆるゆるだったなあという気もしてまだまだ頑張らないといけないことはたくさんあるので最後まで頑張りたいと思う。

 

来年はもっともっと外に出ていきたいとも思うし、成果を対外的に出すという事にもチャレンジしなくてはいけないだろう。

 

いろんなことを頑張って、ちゃんとやれるし、色々手を出していて幅広い人だなと思われるような二年目を過ごしたいと思う。あっという間に二年が経ちそうだけれど、ふりかえるとちゃんといろいろしたなという一年にしたい。今年は慣れる一年だった。

卒業

今日は卒業式だった。何とかみんなが卒業してくれてよかったなあと思うし、できれば何らかを学んで社会で活躍してくれればいいなあと思う。

 

今思い返してみると卒業して何を学んだかを具体的にあげてみるといくつか思い出される。もちろんその中には大したことないものもあるのだけど思い返してみるとあの時あれを言われたからとか先輩とか同期から学んだことも多くあるように思われる。

 

もちろん体系立てて授業で学問として学んだことも多いのだけど、丁寧にやることの大切さや時には雑でもいいからかっこよく見せるということの大事さも学んだように思う。

 

そのほか議事録の取り方とかメールの仕方とかの部分も学んだ気がしている。そのような部分を学ぶことはもしかしたら直接は意図されていなかったかもしれないけど、結局はまなんだことで役に立つことの一つになっている。

 

にしてもメールを送るのは良くてもあのいちゃもんは結構いちゃもんだと思う。気を付けるようにしているけど、あそこで学ぶべきは怒られが発生した時にはハードルが上がるので普段は怒られない部分も気を付けておくことだろう。余裕を観ておくことは悪くない。

 

あとは人の良いところを学ぶということを学んだ気がする。高校生までは人として最低限学んでねということが多かった気がするが、大学からは良いところを伸ばそうという考えが多かったように思う。

 

結局は最低限はクリアして、あとは人のいいところをまねて伸ばそうという段階が大学や大学院だったのかもしれない。多くの人にはどこかは尊敬できるポイントがあって、そこを伸ばそうとしていた気がする。

 

そこは学べる気がしていて、結局人というのは苦手なところと得意なところがあるんだよなあと思ってということがそうなのかもしれない。

 

得意と苦手をいいバランスでまとめて、苦手なところをなくすということが重要なのかもしれないと考えた。

 

まあ苦手なところをなくすのは大変なので、苦手なところを使わないといけない時をうまく除外するというかその場から逃げるといううまい方法を見つけるということが重要なのかもしれない。

 

つまり自分に合った場所で働くということが結局は大事であって、そうすると苦手な部分が目立たずまあ楽しいかなということになるのかもしれない。

 

結局は逃げずに頑張らなくてはいけないけど、適当なところで逃げるということも重要なんだろうということだ。

 

逃げも一定のハードルをクリアすればOK

 

勉強すること

勉強することが仕事のような仕事なので、働き始めてからも常に勉強している気がする。しかし、資格とかの勉強とは違うので、なんだか明確な目標や方向性が定まらないが楽しくもあり、難しくもありというところだ。

 

昨年たまたま資格勉強をして、無事に受かったのは良かったのだが、資格勉強は結構らくちんだなと思った。結局はゴールとなる試験に受かるというモチベーションもあるし、試験の過去問や勉強する本も準備されている。

 

方向性が固まっていて、これを覚えれば良いというところがあるのでそれさえ勉強してしまえばいいし、もちろんすべてを完璧にやる必要もない。合格点があるので苦手なところはさぼってしまってもいいし、得意なところを伸ばせばいい。

 

こう考えるとあとは暗記とか覚えてないところを勉強しなおしたりとかするだけでよいので資格試験は楽だなあというか筋トレだなあと思う。もちろん覚えるのも大変だし結構時間は取られてしまうのだけど。

 

その反面今やっている勉強は必要性とこれからこういう方向の勉強がいるのかなあという予測からなるもので、悪くはないんだけど、本当にそれが必要なのかを考える必要があって、それが正しいのか、本当に必要なのかを考えつつやらないといけないところに難しさがあるなあと思う。

 

今年一年はいろんなことを経験したけれどどれも細切れで小さな事ばかりかもしれない。種まきはできたような気もするけど大きなことに取り組んで柱を立てないと、小さな草原にしかならない気がしていて少し焦っている。

 

結局は消費されて終わりになってしまう気もしていて、やるべきことをしっかりとこなすという事も大事だけれど、ちゃんと仕事をビジョンをもってやってみるということも大事なのかもしれないと思っている。

 

ただそれをどう考えていけばいいかがわからないのと目の前のことがたくさんありすぎるというのが問題なのかもしれない。なんでも手を出していくというのもいいけれどしっかりとサクサク手を放していくという事もうまくならなければちゃんとしたいい仕事ができなくなってしまう。

 

きちんと目の前のことに向き合いつつ、長期的な視点を持って自分のキャリア形成につなげていくという事を日々忘れずに仕事をしていくこと、そして時々振り返りながら、方向性を柔軟に見直していくという事を忘れないでやり続けるという事が大事なのだろうと考える。

 

そのための具体策とか、結局どういう工夫をしたらよいのか、何をすればいいのかということはまた次に考えてみよう。